SSブログ
- | 次の10件

印刷術の発達と曲面印刷(昭和15年3月9日 於鉄道協会) その3 [記録]

その3
  平面印刷より曲面印刷への中間的発明 
何れに致しましても、偶然に発明といふものは決して成し遂げられるものではありません。所謂必要がそこになければならぬのであります。ところが、必要であるといふことが判つてゐながら、一足飛びに、所謂目的の彼岸に達するといふことは不可能であります。そこにステップ・バイ・ステップとでも申しませうか、現れました中間的発明と申しますのは、取りも直さずこれは転写紙のことでございます。
 話が変わりまして、十八世紀の半頃イギリスに於いて例の産業革命が起り、凡ての産業部門は手工から機械化へと転向致してまゐりました。此の波に、マンチェスターの陶磁器業者も勢ひ否でも応でも乗せられなければならなかつたのでございますが、そこにマンチェスターの住人にジョン・サドラーといふ人がございまして、その人は、子供の写し絵、われわれの子供の自分に能く見ましたが、写し絵からヒントを得まして、陶磁器に向くところの転写紙の発明に志したのでございます。彼はその方面において純粋の専門家でなかつたと見えまして印刷業技術者のゲー・グリンといふ人の援助を得まして、遂に一七五六年七月二十七日付を以ってイギリスの特許を得てをります。
 ご承知のとおり転写紙といふものは、例へば、かういふ器物(水呑)に、本来は印刷をしてみたいのでございますが、印刷する技術がない。已むを得ず平らに刷つて紙を部分的に貼り付けて絵を写し、さうして水洗いして紙を離脱する方法でございます。勿論kの研究は、日本でもサドラーの発明の百五十年も経つてから明治二十一年頃に、ある貿易商の手を通じて、名古屋の瀧藤商店といふのに見本がまゐつたのに始まりました。ところが、日本の印刷界は今日に於いてこそ世界の三大業国と謂はれる程に発達してをりますが、日清戦争以前の状態は、恐らく貧弱であつたと存じます。ただ、イギリス辺りからまゐりました転写紙を応用した陶磁器製品を見て、名古屋の言葉で申しますと、「勘考がにやあい」というふの外なたつたのであります。
 然るに日清の役は起り、戦勝国日本の名前は海外に喧伝されるに至りました。そこで従来のいはゆる画家が袴を穿いて端座して几帳面に筆をはしらせて描いてをつたんでは迚も需要に応じ得ない。何とかして之を真似たい、真似たいといふ希望から、岐阜県多治見の人に小栗国次郎といふ方がありまして、この人が東京に何回も足を運んだといふことでございますが、やつとの事で、明治三十三年頃転写紙をどうにかかうにか真似できるやうになつたといふことでございます。一寸申し忘れましたが、転写紙の発明によつてどの位加工能率が挙つたかといひますと、一人六時間に千二百箇の器物に模様付加工をなし得るやうになりました。これは筆で描いてゐる場合には、約百人の人の同じく六時間の仕事に相当するといふことです。これはイギリスの本に出てをりますが、如何に転写紙といふものが、中間的役割を果たしたかといふことは想像に余りあるんでございます。然し今申上げます転写紙といふものは、恐らく、でなく事実その最初の発明といふものあh、凹版によるところの一色印刷であつたのでありますが、さつき申上げましたセネフエルデルの発明があつて、平版といふものが印刷界に多彩を添えた後は、これが多方面の印刷に応用され、今日では転写紙といふものは、平版術による転写紙でございます。かういふことは私の専門外で、皆さんから聞いたことばかりを請売りをしてをつて大変申訳ありませんが、そこで愈々曲面印刷について申上げます。
  曲面印刷の揺籃時代 
私自ら曲面印刷を研究し始めたのは大正の末頃でございました。当時私は印刷業に志して出版のお手伝ひをしながら、同時に自ら下谷で生命社といふ小つぽけな活版所の自家経営を致しました。ところが、洵に平凡で、東京には御承知の大印刷会社がございまして、到底われわれが何百年かゝつても追い付けさうもない。これでは仕方がないといふので、東京高等工芸学校にしよつちゆう参りまして、鎌田先生、伊東先生の御指導を寛大なる御処置によつて、実験室を我がもの顔に使はせていただいたのでございます。当時の記憶を甦しますといふと、ロシアの夫人でブブノヴァといふ白系の人がございました。この人と私とを伊東先生が評して、君等二人は「名誉学生だ」と云はれたことを記憶いたしてゐます。
 余談は措きまして、その曲面印刷の最初に世間に発表されたのは、一八八八年十月一日付でドイツ人の某が弾性質の版を利用して、曲がつた面に印刷をする方法といふ特許を取つてをります。それ以降五件ございまして、勿論これは私自らドイツやイギリスにさういふ研究が始まつてゐるといふことは毛頭知る由もなかつたのであります。自らの発明を外国に出願して見ようといふので、東京にある弁理士のお方に依頼いたしまして、類似系統のものがあるかどうかを知るために、印刷に関する方法、殊に方法を中心とした凡有るスペシフィケーションを取り寄せて貰つたのであります。集まりましたのは六件ありました。話がいろいろとジツクザツクなつてお聴き辛いでございませうが、私先年パリへ参りました際にベルリンに行きました。恰度出願中であつたものでございますから、ドイツの審査官に会つて、早く許可したらだおうか―と膝詰談判をやつたのでございます。その時に向こうの審査官が手許に持つてをりました、いはゆる公知材料、即ち拒絶材料として持つてゐるものを見ますると、自分の持つてをつたのと非常に似てゐる。克明に似てゐる。「どうもお前の持つてゐるのと俺の持つてゐるのと同じ様だが俺は日本で蒐めたのだが、俺の出した特許の出願に拒絶の材料が在るか、」その時に克明に番号を合わせて行くと、私の持つてゐるのと総てが同じでございまして、六件しかないといふことが確実に判りました。その時の審査官の顔付は、関西の言葉で所謂“よう云はんわ”といふ言葉そつくりでございました。
 人類の抱懐してゐる思想といふものは、これはどの人種でも大体同じ事を考へてゐるものと見えて、例へば何と申しますか、人間の考える思想は大体同じであつて、然もそも同じ思想が―その表現の形式が勿論違ふでせうが、―或は伝説となつたり、迷信となつたり、いろいろな形式で、時と所とを全然超越して全く同じやうな表現がされるものであります。況や此の科学の世界に於いて、同一の目的物、例へば、玆に曲面へ印刷をしてみたいというふ希望に対して、その過程とか結論とはいふものが同じで有り得るといふことは、これは当然のことと存じますが、これは私はハツキリ申上げますが、決して他のものを参考としたわけのものではないのであります。私自身は初めから自信をもつてやつてみました。ただ曲面に印刷してみようといふ考えが向うにもあつたといふに過ぎないのであります。
 玆に述べたいのは、私のやりました曲面印刷と欧洲人の玄人の研究者のやりましたものとはプロセスにおいて完全に違つてをつて、私が完全に優秀なものであつたといふことは自負心をもつて云ひ得ると存じます。
 何れその事は後から申上げたいと存じますがさつき申上げました六件の特許のほかに、米国のソラー・ラボラトリー、同じく米国のアニグラフヰツク・コーポレーション、フランスのデュヴヰといふ会社、イギリスのストウク・オン・トレントといふ地方の名前でございますが、其処に陶磁器を中心とした研究会社があるというふことでございました。そのソラー・ラボラトリーと私とは非常に因縁がつきまして、今日先方でも私の発明のいはゆる社会性化することを期待してくれてゐるのであります。

印刷術の発達と曲面印刷(昭和15年3月9日 於鉄道協会) その2 [記録]

 その2
  世界印刷界重要発明記録
 余談はさて措きまして、こゝに持参の記録は、東京高等工芸学校の伊藤亮次先生とか、庄司浅水先生などの御著書から、牽き出して来たものですから、間違ひはあるまいと思ひますが、先刻申上げましたやうに、講演の順序として、世界の印刷術の発明された記録を年代順に申上げます。遠く東洋の印刷は、余りに時代がかけ離れてをるが故に之を略しまして、例のドイツのヨハン・グーテンベルグの発明から申上げます。あれは一四四〇年とか、或いは四四年とか書いてありますが、ドイツでは本年五月よりグーテンベルグの発明五百年祭を盛大にライプチツヒで行はうと云ってをりますから、それによれば一四四〇年が或いは正しいと思ひますが、庄司氏の記録には四十五年とあります。
 云ふ迄もなくグーテンベルグの発明は、鉛を主材として鋳造した所謂活字、即ムーヴァブル・タイプでありまして、これが近世の活版印刷術の濫觴をなした、非常に印刷界において重要な発明であります。
 続いて一七二五年、イギリスのウヰリアム・ゲッドといふ人が、石膏によつてステロ版を造る発明を成し遂げてをるのであります。今日石膏を以つてステロ版を造るといふこと、つまり鉛版を造るといふことは致してをりませんが、今日の紙型版の先駆をなしたものとして非常に重要なる発明ではなからうかと存じます。その次に同じくイギリスのウヰリアム・ニコルソンといふ人が、動力利用の印刷機を発明してゐます。これは云ふ迄もなく印刷物をして大量製産を可能ならしめるに貢献した発明であります。
 一七九六年、ドイツ人のアロイス・セネフエルダーといふ人が石版術を発明してをります。これは皆さんが雑誌その他によつて親しくご覧になつてゐる平版印刷術の発明でありまして、是亦わが印刷界においては大書すべき発明でございます。
 更に続いて一七九八年、イギリス人チャーレス・スタンホープ伯爵、この人は、印刷機械が今まで木製部分があつたものを全部鉄製の機械に改めた功労者でございます。
 一八〇四年、米人のロバート・ホーといふ人は、みづからアール・ホーといふ社名の会社を起しまして輪転機を販売致しました。これはわれわれが毎朝起きると直ぐご厄介になります新聞紙をはじめ雑誌そのた所謂大量製産の印刷物は、この輪転機の完成によりまして、今日の恩恵を享けてをるのでございます。是亦重要な発明と存じます。
 続いて一八六八年、ドイツ人ジョセフ・アルバートといふ人は、コロタイプといふ一つの印刷方法を発明致しました。このコロタイプの名前は、皆さん先刻御承知だと存じます。
 それから一八七五年、米人R・バークレーといふ人が、錻力(ぶりき)に印刷する機械を発明してをります。缶詰やその他いろいろの容器類に綺麗な印刷が施されてをります。その錻力の印刷の発明は、今申上げたやうに一八七五年成し遂げられてをります。
 続いて一八七八年、米人フレデリツク・ユーゲン・アイヴスといふ人が、写真網目版を発明してをります。これは非常に重要な発明で、例へば、元は新聞の挿絵を申しますと、一々木版に彫りまして、本物と似ても似つかぬやうなものが極少量で而も原価が高く、同時に能率も挙がらなかつたのでございますが、今日では新聞社で写真に撮つた写真が瞬間にすぐ製版され印刷ができる様になりました。現物と寸分違わない写真が見られるといふことは、この写真網目版のお蔭であります。この発明の原理は、光学上の難しい原理がございますが、私はさういふことを申上げる資格がありません。
 一八八三年、ドイツ人のオツトマー・マーゲンターレルといふ人が、ライノタイプ・マシンといふのを発明してゐます。これも活版術界の重要な発明であります。
 一八九四年、チエツコ人のカール・クリツシュといふ人が、グラヴュヤ印刷の方法を完成してをります。先刻申上げます通り、グラヴュヤ印刷といふことは、別の言葉で申しますと、写真凹版と申しまして、「週刊朝日」やそのた婦人雑誌等の口絵には非常に沢山利用されてをります。是亦非常に重要な発明でございます。
 一九〇四年米人イラ・ワシントン・ルーベルがオフセツト印刷術を発明してをります。
 更に一九一〇年に同じく米人ヒューブナー外一人が、俗に言ふH・B・プロセスなるものを発明してゐます。これは凸版印刷の大澤さんが非常にお骨折りになつて、態々米国へ行かれてその技術を修得されたといふ、日本の印刷界としましては因縁付の技術でございます。
  印刷術は発明界の大長老
 抜けた点も多いと思ひますが、これだけ私は拾つてまゐつたのでございます。以上の如く、わが印刷界の発明は、大体十九世紀、即ち前世紀の終り頃までに完成されました。つまり私がさつき申上げまる通りに、印刷術は、一切の発明界において途轍もない大長老者であるといふことを申上げたいのでございます。例へば、帝国発明協会で編纂されてをります発明年鑑の五百五十三頁と記憶してをりますが、世界発明年表といふ一項がございます。それにわれわれの方の例のグーテンベルグが先づ筆頭に挙がつてをります。それから続いて百五六十年経ちまして英人のリーが莫大(メリ)小(ヤス)機械を発明してをります。それ以後、つまり一四四〇年から一九三四年で締切つてございましたが、其の間に百十七件の世界に貢献した重大発明がございます。その百十七件のうちでもグーテンベルグは更に百五、六十年近代の諸発明より先輩でございます。況んやこれが過去二千年に近い歴史をもつてうぃるといふことは、われわれ印刷に従事するものの非常な誇りなのでございます。ただ先刻申しまして居ります印刷は、一切これは所謂平面を対象といたしました印刷技術に関する範囲のみでございます。一寸矢野先生の印刷に関する御定義を玆に引用致しまして結びをいたしますが、工学博士矢野道也先生の印刷に関する定義に曰く、
「印刷といふ技術は、一般に紙又は布帛の如き平面の上に、黒又は彩色を施したる文字又は図形と同一なるものを現出せしめて、多数に揃へて製出するの方法である」
と云つてをられます。つまり印刷の対象物は、一切平面である、といふことをハツキリ云つてをられるのでございますが、私は、これに対して非常に異議を狭(挟)まざるを得ないやうな曲面印刷といふものを研究したのでございます。これからそれに就いて申上げたいと存じます。
一体、簡単から複雑へ、或いは平面から立体へといふのは、これは総てのものの進化の過程として、所謂常識的事実でございます。嘗ては陸と海上の護りさへ強ければ、国家は正に安泰でありました。ところが今日では、空中を征服し且つ海底を牛耳らなければ一国の安泰を期することはできない、いふやうなわけであります。これは要するに、簡単から複雑へ、平面から立体へといふ文明進化の常道とでも申しませう。いま曲面印刷について申上げます前に、一つ中間的に、曲面印刷と平面印刷との間に現はれた発明の事について申上げます。

印刷術の発達と曲面印刷(昭和15年3月9日 於鉄道協会) [記録]

 ここに紹介するのは祖父が行った講演会の記録である。講演の題目は『印刷術の発達と曲面印刷』である。発表されたのは昭和15年3月9日、鉄道協会。掲載されたのは社団法人帝国発明協会発行の雑誌『発明』の第37巻第6号印刷と発明特集号で、昭和15年(1940年)6月5日発行されている。
 寄稿しているのは以下の通りである。
 1)印刷術発達史 内閣印刷局研究所長 矢野道也
 2)日本に於ける洋式活版の源流  川田久長
 3)本邦特許から見た印刷文化   特許局 徳田宣雄
 4)グーテンベルグの人物及びその発明 英国 ヴィクター・ショルデラー
 ・明治発明百話(三七)       篠田鑛造
 5)印刷術の発達と曲面印刷     箱木一郎 pp30-39
 ・海外写真ニュース
 6)詐欺的犯罪と発明      警視庁防犯課長 貴具正勝
 ・工業所有権制度其他に関し 本会より特許局へ意見書提出
 ・或る日の断想  民族と発明  逓信省電気試験所 堀岡正家
            断想  日本大学医科 早川堅太郎
 ・プラスチクス時代       寮佐吉
 ・科学小説 ドナウ河畔に殺人光線を見る  ヘンリイ・マルリック
 ・発明俳壇
 ・会務報告
 ・特許
 ・実用新案
 合計70ページ
 
 祖父の講演原稿は10ページに亘るので、数回に分割して紹介する。その1という呼称は便宜上、つけてある。

 印刷術の発達と曲面印刷(昭和15年3月9日 於鉄道協会) その1
      箱木 一郎  
 緒言 
 只今紹介を戴きました箱木でございます。
 私は誤りまして、本来科学が好きであつたに拘らず、社会学の如き学問を専攻したために、科学方面については洵に無知識で、みづからも残念なことをしたと存じております。今夕写真その他印刷方面の御専門の方を前にしまして、不束な私が、この演壇からお話を申し上げるといふことは、寔に僭越の至りと存じますが、約今から二十年前、例の関東の震災の直後頃から、ふとした因縁で印刷方面に自分の職業を置いた関係上、つい下手の物好きで以って、二十年間「曲面印刷」と云つて日々暮らしてきました私の経験の範囲内を申し上げたいと存じます。でございまするから、私の申し上げますことは、すべて非科学的で、皆さんのお聴き辛いことを予めご了承願ひたいと存じます。
 偖て、曲面印刷のことを申し上げます前に、一応わが印刷界の過去の総ての歴史の極く概要を申し上げて、講演の順序を立てたいと存じます。
   世界最大発明の一つ 
 皆様既に御承知の如く、印刷術なくして今日の文明は決して齎されなかつたといふことは申し上げるまでもないことでございまして、已に今から二千年近くも前に、わが印刷術は、然も東洋人の手に依つて、発明されたそうであります。御承知の世界三大発明の一つでありまして、彼の羅針盤と火薬と印刷の此のトリオが、世界発明界の大元老をなしてをるのであります。こんなことを申し上げて、素人の私が僭越でございますが、今申しました如く略ゝ二千年に近い歴史を持つてゐるといふことの実証を一、二例を引いて申し上げ、それから此処に書き挙げてまゐりました―或いは間違つているか存じませんが―印刷術発明の年表を極く簡単に申し上げたいと存じます。
 現存印刷物二件 
 今世界に現存してをります印刷物として有名なものが二つございます。
 その一つは皆さんも已に御承知の例の法隆寺の百万塔の中に蔵されてをりますところの曼荼羅尼の印刷物でございます。これは西暦七百七十年孝謙天皇の御代に、例の恵美押勝の乱をお平らげになりまして福利民福を御念願遊ばされる御聖旨から、曼荼羅尼の文句を印刷なさいましてそれを小さな木製の三重塔に納められ、然も百万部お刷りになつたといふことでございます。さうして近畿の十大寺に各々之を納め遊ばされたものださうでございますが、その後いろいろの事情兵乱その他の関係上今日に遺されたものは、僅かに法隆寺のもののみとなつて、現在猶現在約一万部程は保存されてゐるといふことでございますが、その一部が大英博物館に所蔵されて以来、これが世界最古の現存してゐる印刷物であるといふので、一躍して日本の印刷技術は世界的に認められたものであるさうでございます。
 それからもう一つ申し上げたいのは、これは余り世間に広く知られてゐない筈でございますが法隆寺よりか百六七十年前に印刷されたといふ者であります。それは其の印刷物に隋の大業三年とハツキリ記録されてゐることによりまして年代は恐らく間違ひないことと存じます。その二部を現在東京に所蔵されてゐる方がございます。この品物は、例の英仏人等のペリオとか、シュタインとか云ふ考古学者が、敦煌から発掘して、イギリスに、仏蘭西に持ち去りましたその残りがどうしたものか日本に紛れ込んで来たさうでございます。今日、品川大崎の長者丸松田福一郎氏といふ推古美術の研究者で、同時に神奈川電気の社長を為さつてゐる方が所蔵されて居ります。約十三年程前に、私、松田先生に御昵懇にしていただいて居ります関係上一日親しく拝見することを得させていただきましたが、僅か十倍のレンズで拡大して見ますと、正しく印刷物である、といふことは私にも正確に認識することができるのであります。
 それでこれは余談になりますが、折角法隆寺の百万塔の陀羅尼の印刷物が、世界最古といふ保証を付けられたにも拘らず、こゝに西暦に直しまして六百年、法隆寺の七百七十年に先んずること百六十三年に、それよりも先輩が既にあつたといふことは、法隆寺の百万塔のために洵に悲しいわけでございます。そこで曩(さき)に申上げました、松田さんのお宅でそれを拝見しながら、『これは非常に結構なものではあるが、一つ先生日本の名誉のために、宜しくこれは富豪の自己満足の対象物として、之を死蔵して下さい』といつて皮肉つたことがございました。

巴里の裏街 新大衆昭和14年2月号より [記録]

 ここに紹介するのは、箱木一郎がスクラップにして保管していた雑誌の記事である。「新大衆」という雑誌で、海外の街が紹介されているようであるが、祖父が出てくるのは巴里の話である。この記事で初めて知った。

巴里(パリー)の裏街(うらまち)           武藤 叟
 最初に巴里に行った時の盛り場はモンマルトルであった。二度目巴里に行った時の盛り場はモンパルナスであった。三度目巴里に行った時の盛り場はシャンゼリゼーであった。その他、学生街のパンテオン附近や、山手のワグラム一帯も盛り場の名にそむかぬ。マドレーヌからオペラ、サンドニー、サンマルタンの所謂グランブーヴァールの殷盛は云ふまでも無い。
 明治初年青木恒三郎編輯大阪の嵩座堂で発行せられた世界旅行万国名所図絵第三巻にはカルチエラタンを次のように紹介してある。
『西巴(にしパ)黎(リス)には大小の、学校多く建立し書生多く徘徊す、暇(か)時(じ)には酒楼(おちやや)に快(かい)を買ひ、麦酒(むぎざけ)機嫌で行くもあり、総体昻(こう)気(き)盛んにて、肩をいからし歩を高く、書生の状態いづくでも、かわりしことは無きぞかし。且此(この)辺(へん)は巴黎中、狭き斜めの巷にて、一二の街私窩(じごく)あり、いといやらしき妖婦ども午後より四方に徘徊し、強いて客を拘引す、欧洲中にもフランスは、随分淫らの風ありて、識者の愧(はづ)る処也』
 識者の愧る処也―では面白い話がある。或る帝大の倫理の先生を案内して歩いて居ると、先方から、異国の美型を連れて歩いて来る日本人があった。倫理先生ひどく不愉快になつて、吐き棄てるように云って曰く『国辱ですなア・・・』と、数日して用事があつて又同じところを歩いて行くとほとんど同じ場所で倫理先生の所謂国辱風景に出遭つた。が、さらに接近して見ると前日とは男が違って居た。即ち男は倫理先生その人であった。
 さて、盛り場の話であるが、前記した盛り場のうちで一番陰影に富んで居るのは、やつぱり昔ながらのモンマルトルであろう。建築物にも、人の生活にも、時代のサビが濃やかである。キッたハッたの活劇から、涙をそそる人情味から、叫喚と爆笑と艶姿と嬌声から・・・・断然、巴里の王冠である。このモンマルトルも欧洲大戦後、カルチエラタンに近いモンパルナスにその華やかさを奪われた。といふのはモンパルナスに陸続として、アメリカ風の大がゝりなカフエが立ちならんだからである。然し、最近に於いて、さらに大がかりなのがシャンゼリゼーに出現するようになつて見ると、モンパルナスはいたく中途半端になつてしまつた。そして、いつそ昔風の巴里を慕ふものゝために、モンマルトルが又喜ばれるようになつて来た―と見るのが至当であろう。
 モンマルトルと云ふのは、サックレケウール寺の南麓一帯のことであるがクリーシーの広場から始まつて、ピカール広場を経てブールヴァール・ド・ロウシュシュアールの終わるまでの大通りがその根幹をなしてゐる。そのうちに地獄、極楽や、黒猫屋や、日本までも有名なムーラン・ウルージュ等があるのである。
 これは今度行つた時の話であるが、この裏街で日英の大活劇を演じて仕舞ふことになつた。話はこうである。今度巴里の万国博で最高賞を獲得して天下に名を成した(尤も彼はその以前に今上陛下の恩賜賞を戴いているのだが)箱木(はこぎ)一郎(いちろう)氏も一人は現に新宿御苑に勤めて居る福羽發(ふくははつ)三(ざう)氏(父君は福羽苺を育成して、世界的に令名ある人)何れも代表的な大竹を割ったような快男子である。箱木君の如きは、フランスの大統領に腕まくりのまゝ、自分の発明にかゝる曲面印刷機の説明をやつて、その明晰なる頭脳と流麗なる英語と堂々たる態度に恍惚たらしめた男である。この両君の案内役が僕である。
 両君とも、フランス語は皆目わからないが、そんなことで縮ぢかんだり遠慮するような男ではない。ワグラムのロシア料理で、豚の串焼か何かで大いにメートルをあげたあと、バルタバランに車をつけたのであるが、両君の希望はそんな女々しいことでは足りなくなつてしまつて居たのでプラスヒギアールで車をすてた。モンマルトルの頂きから、夜の巴里を脚下にしながら、さらに大いに日本の新しい世界政策を論じようと云ふのである。曲がりくねつてリューシャップにさしかゝつた時であつた。リューデトロアフレールからすさまじい勢いで飛び出して来た男が三人、そのうちの一人が我々より数歩先行一人の男を一撃で突き倒してしまつた。『ウ、なにウォする!』一喝が福羽氏の口を突いた。トタンに彼はその無頼漢をフン捉まへてしまつてゐた。驚いたのは僕だ。義侠は日本でのこと、まして異人さん同士の喧嘩に捲き込まれるのは愚の骨頂習慣を知らぬ福羽氏を放させようするが、少々お酒も手伝つた日本男子の腕は鉄のように堅い。その時早くもこの時遅く、彼等の一味の二人は、この降ってわいた一人のスペイン人(彼等はそう思ったのであつた。眉目秀麗なる福羽氏は、むしろ英国型の好男子である)に弾丸の如く飛びかゝつて行つた
も一度、この時遅くかの時早く、福羽氏は自分のツカんだ男でもつて飛びかゝつて来る男を受けとめ、箱木氏はも一人の男の脚を自分の脚の先でチョイとからめた。結果は、福羽しにツカまれた男は、自分の同志から、目の玉が飛び出る程の一撃を喰らひ、も一人の足をからめられた男はもろくも我と我が身を石畳の上にたたきつけた。自分の同志の横面をヒツぱたいた男が立ちなほろうとする前に、福羽氏に投げられた男の脚が空を切つて下(お)ちた。それは数秒の出来事であつた。僕が唖然として居る数秒の間に、彼等三人の異人さんは、完全にノビてしまつた。十数分の後、後ろから人が追つかけて来る足音がしたので振りかへつて見ると一人の巡査であつた。簡単に事情を聞いた後、彼等は昨夜(ゆふべ)もこの附近で暴れた英国の船員だと云つて淡々として帰つて行つた。
『男×をやる家』の前を通つて『兎の家』でビールを飲んで、タクシーを拾ってパッシーに帰つて行つた。モンマルトルはこれからと云ふ午前一時を、パッシイはもう流石にシンと寝静まつて居た。

掲出誌:『新大衆』昭和14年(1939年)2月号 pp110-111
武藤叟は、巴里会の世話役だった人物。参考資料「非文字資料研究The Study of Nonwritten Cultural Materials」ISSN-1348-8139 News Letter 2010.1 No.23 報告2 鈴木貴宇(たかね)「1930年代の銀座における巴里への憧憬―雑誌『あみ・ど・ぱり』と巴里会」以下引用文:
巴里会の「帝都復興」に東京市民が湧いた1930年代、銀座を拠点に画家、作家、ジャーナリスト、実業家といった人士の集まりである。彼らはパリに滞在経験のある人々がパリのような都市を銀座に実現させようという問題意識を共有していた。巴里会は世話役の武藤叟や発起人の黒田鵬心らが中心となり、1930年(昭和5年)に発足した、毎月14日(フランス革命記念日)を例日に会食などをする社交クラブが原点となった。同会は、4年後に機関紙「あみ・ど・ぱり」AMIS DE Parisを刊行している。

箱木一郎 Ichiro Hakogi [記録]

SSCN1212.JPG
箱木一郎(Ichiro Hakogi)をご紹介します。
Ichiro Hakogi.JPG



  1896年(明治29年)1月9日兵庫県神戸市に生れる
  1906年(明治39年)3月 鉄道技師であった父兼吉転勤のため、群馬県松井田町に転居。
  1914年(大正3年)3月 群馬県立高崎中学卒業。
  1919年 前田しげ(1900-1976)と結婚。
  1922年 神戸基督教青年商業学校へ英語教師として就職。
  1923年 関西学院大学文学部社会学科卒業。12月東京へ転居。世界文庫刊行会へ入社、傍ら活版印刷業を経営。
  1924年 東京高等工芸学校(現千葉大学)に於いて伊東亮次先生に師事し印刷学を研修する。
       「曲面体への印刷方法」についての研究生活に入る。
  1926年 日本曲面印刷研究所設立。
  1928年 基礎研究の成果として「曲面体上への印刷方法」特許出願。斯界の先駆をなすものとして高く評価された。
  1929年 「曲面体上への印刷方法」特許第80046号として登録される。
  1932年 陶磁器産業の中心である名古屋へ転居。
  1934年 恩賜発明奨励賞授与される。「負圧力利用曲面体印刷方法」特許出願。独・米・英・仏・チェコ他諸外国でも特許取得、
        高い評価を受ける。1936年特許第117491号として登録。
  1937年 フランス政府主催のパリ万国博覧会に「陶磁器自動印刷機」出品。仏政府より科学グランプリ賞を授与される。      
  1938年 「発明」二月号”巴里博より帰りて”
  1946年 社団法人発明協会本部理事に就任。(~1949年)
  1952年 「日本発明家五〇傑選」(特許庁・発明図書刊行会発行)に”曲面印刷法の父”として業績紹介される。
  1955年 「特許制度七〇年史」(特許庁編集・発明協会発行)附録「発明年表」に”世界印刷文化史上画期的な独創発明”として
        任意面上への印刷方法」特許第80046号が採録される。
  1957年   5月1日 日本曲面印刷機株式会社創立。代表取締役社長に就任。
  1963年 社団法人発明協会より発明功労賞授与される。
  1964年 東京都知事より東京都発明関係功労表彰受ける。
  1965年 紫綬褒章授与される。紺綬褒章授与。「曲面印刷」(印刷出版研究所刊)執筆。
  1966年 グーテンベルク科学博物館より名誉会員に推薦される。マインツ市の名誉市民となる。
  1967年 グーテンベルク科学博物館年鑑1967年度版に曲面印刷に関する三論文を寄稿し採録される。勲四等旭日小綬章下賜さ  れる。
  1971年1月18日 日本曲面印刷機株式会社社長を退き、会長に就任。1月23日永眠。従五位に叙せられる。

   *出典:『箱木一郎「曲面印刷」を語る』(日本曲面印刷機株式会社)発行  A perfume bottle printed with the Kurba Gravo.JPG

at Yata Factory in Nagoya.JPG


   

名古屋 矢田工場にて お皿の印刷に夢中の頃(1930年代前半)

1937年巴里万国博覧会公式カタログより [箱木一郎 曲面印刷 ichiro hakogi]

 祖父箱木一郎が曲面印刷機Kurba Gravoを出陳した1937年のパリ万博。その記録の載っている書籍から写真を紹介。一枚目は1937年巴里万博公式目録(CATALOGUE OFFICIEL TOME I 2 Edition LISTE DES EXPOSNTS PARIS 1937)の表紙。因みに巴里万博の副題は「近代生活に於ける美術と工芸」であった。cover.JPG

 二枚目の写真は、表紙と同様の文字が書かれている。(EXPOSITION INTERNATIONALE DES ARTS ET DES TECHNIQUES DANS LA VIE MODERNE PARIS 1937 TOME I (2e Edition) CATALOGUE GENERAL OFFICIEL) TOME Iとなっているので、第二巻もあるのであろうが、残念ながらどのようなものかは分からない。
first page.JPG

 三枚目の写真は、区分が書かれた頁である。1から14までに分けられている。GROUPE I. - Expression de la pensee.第一群は「思考の表現」で、その分類1では「応用に於ける科学的発見」となっている。一階が「発見の宮殿」で、例えば第13の間では「原子の放射能と合成」(RADIOACTIVITE ET SYNTHESE ATOMIQUE), 第28の間は植物園で、日本庭園、ミニチュア庭園などの項目も見える。この第一群の責任者はPaul Valeryポール・ヴァレリである。
 分類5では「音楽の発露」(MANIFESTATIONS MUSICALES)となっており、目的は当時のフランスで進行中の音楽を描き出すことである。演奏された作曲家たちには、Arthur Honneger, Charles Koechlin, Olivier Messian, Darius Milhaud, Jacques Ibert, Francis Poulenc, Maurice Ravel, Igor Strawinskyがずらりと並んでいる。日本人のMichigo Toyama (Japon)として、オネゲルに続いて第一演奏会に名を連ねている。作品名はVoix de Yamato (pour soprano)で、楽器はフルート2、クラリネット、ファゴットおよびチェロである。

classification.JPG

 4枚目の写真は、万博に参加した外国の括りである。
sections etrangeres.JPG

 5枚目の写真が、参加した日本の出品者、団体名の一覧である。日本は8ページ、アメリカ10ページ、イギリス13ページ、ドイツは50ページなので、万博に対する各国の力の入れ方が伺われるように見える。
 掲載されているのは732ページ下から24行目であるが、ここに箱木一郎の名前が見える。フランス語では下記のように書かれている。
 YOSHITAKA SEKI ET ICHIRO HAKOGI, Tokio. - (Machine a imprimer, surface courbe automatique : Hakogi's Curba Grovo-Machine)
(残念ながらKurba Gravoの綴りが異なっている。)
curba Gravo machine.JPG

 また、改めてのこ巴里万博については、巴里万国博覧会協会が発行した「一九三七年巴里万国博覧会協会事務報告」に基づいてまとめてみたい。(2011年1月4日 水曜日)

THE PENROSE ANNUAL 1940 [箱木一郎 曲面印刷 ichiro hakogi]

THE PENROSE ANNUALReview of the Graphic Arts
Edited by R. B. Fishenden, M.Sc.(Tech.), F.R.P.S.
Volume Forty-two
1940

London LUND HUMPHRIES & CO LTD
12 Bedford Square WC1
1940


THE TEXT
General Articles

Editor’s Review
R. B. FISHENDEN, M.SC.(TECH.), F.R.P.S. page 1
Current Advertising – a Commentary
JOHN BETJEMAN, London 17
The Future of “Picture Post”
EDWARD HULTON, Managing Director, Hulton Press Ltd. 21
Realism and Fantasy in Advertisement Presentation
FRED. A. HORN, Designer and Typographer 25
Looking Forward
HOWARD WADMAN, London 29
Fleet Street to Tahiti
ROBERT GIBBINGS, Artist and Engraver 34
Czechoslovak Industrial Art
METHOD KALAB, Director, Industrial Printing Works, Praha, C.S.R. 37
Design in Continental Magazines
BERTRAM EVANS, Bertram Evans and Personal Staff Ltd. 42
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・
Technical Articles

An Epilogue to the Centenary of Photography
EDWARD EPSTEAN, New York page 93
The First Colour Photograph
D. A. SPENCER, PH.D., F.I.C.,(HON.) F.R.P.F., Director, Colour
Photographs (British & Foreign) Ltd. 99
Progress in Photographic Type Composition
V. E. GOODMAN, managing Director, Waterlows Ltd. 101
The Aller Process
ERIC HUMPHRIES, Director, Lund Humphries & Co. Ltd. 105
“Life” Production
N. L. WALLACE, Assistant Vice-President, “Life,” New York 108
Further Gravure Developments
J. S. MERTLE, A.R.P.S., Technical Director, International
Photo-Engravers’ Union, U.S.A. 111
Chemical Discoloration of Printed Matter
CHARLES OCKRENT, PH.D., D..SC., Chief Chemist, Printing and Allied
Trades Research Association 114
Colour Measurement
H. MILLS CARTWRIGHT, F.R.P.F., L.L.C. School of Photo-Engraving 118
The Eastman Colour Temperature Meter
R.F.W. SELMAN, M.SC., A.I.C., Research Laboratory, Kodak Ltd. 121
Colour Synthesis in Trichromatic Printing
DR. J. BEKK, Amsterdam 125
The Necessity for Retouching in Monochrome Photolithography
F.J. TRITTON, B.SC., A.I.C., F.R.P.F.., Manager, Process Department,
Ilford Ltd. 130
A Colour Chart for Photo-Offset Work
F.G.S. CACKETT, A.R.P.S., Brown Knight & Truscott 133
“Triplemetal” – A New Zinc Alloy Photo-Engraving Plate
WM. H. FINKELDEY, Consulting Metallurgist, Edes manufacturing
Co., Plymouth, Mass., U.S.A.; Director, Singmaster & Breyer,
New York 136
Some Recent Developments in Photo-Engraving Material
C.D. HALLAM, F.R.P.S., AND R.S. COX, F.R.P.S., L.C.C. School
Of Photo-Engraving 141
Tint Backgrounds for Half-tones
E.L. TURNER, F.R.P.S., L.C.C. School of Photo-Engraving 143
Developments in High-Brightness Electric Discharge Lamps
J.N. ALDINGTON, B.SC., A.I.C., F.INST.P., Assistant Works Manager,
Siemens Electric Lamps and Supplies Ltd. 145
Spraying Printed Sheets
FRED. A. HACKER, Manager, New Products Division, American
Type Founders Inc., New Jersey, U.S.A. 150
Paper, Ink, and Printability
R.F. BOWLES, B.SC., A.I.C., Lorilleux & Bolton Ltd. 153
The Practice of Bumping
VICTOR CLOUGH, Printing Consultant, London 158
Advertisers’ Note-Book 160



THE LETTERPRESS PROGRESS AND DUPLICATION
Rivalry between the major printing processes is a helpful stimulant. It is unlikely that letterpress will be displaced, but high speeds in the newer methods have compelled more attention to means of reducing make-ready time and increasing output. Long runs are not printed from original type or etched plates, so that accuracy in duplication processes has increased in importance. In this direction electrotypers and stereotypers are meeting satisfactorily existing requirements.
We continue to hold the view that the arrival of the rotary machine for better-class commercial printing cannot be delayed for long. It will be sheet-fed, and the setting-up simple enough to make runs of medium length economical. (Meanwhile we cannot disregard progress made by engineers in the design of high-speed flat-bed machines of small size.)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
“Palaplates,” manufactured by the Palatine Engraving Company, Liverpool, were shown in the last volume; this also is a plastic method, and the success of the process continues.
When the new precision small rotaries arrive we shall require a method to give perfect curved duplicate. The suggestion that plastics may be used for this purpose opens up many possibilities, and they may provide alternatives for a perfected rubber or synthetic rubber which will provide a means for producing duplicates with perfect “faces.”
The Kurbo Gravo Process. A very ingenious machine has been patented and is in use in Japan for printing non-planar surfaces, as for example, pottery, bottles, and cylinders. The process essentially is letterpress offset. An elastic diaphragm is inked with an image of the design in one or more colours, and is brought into contact with the surface to transfer the image. The diaphragm being flexible conforms to the shape of the object to be printed, under pressure applied pneumatically to the back of the diaphragm. A feature of the patent is that means are provide to extract the air from pockets which tend to form between the ink face of the diaphragm and the surface to be printed. In the next volume of the ANNUAL it is hoped to publish an article on this process. (pp8-9)この本のこの頁には新聞の切抜きが挟み込んである。記事の台紙にはJAPAN KURBA GRAVO LABORATORY 631, ARAIJUKU 2-CHOME, OHMORI-KU TOKYOと印刷されたレターヘッドが使われている。朱筆余滴と言う記事には鉛筆で「印刷情報 15年6月25日」と記されている。記事の全文は下記の通り。
本年度のペンローズ年鑑を入手擦る事が出来たが、挿入印刷はひどく見劣りがする。これはと感心するやうなものが一向になかつたのは、欧州戦争*のおかげであらう。しかし独乙の電撃戦の成功で、本年度は印刷年鑑どころではないかもしれぬ。  次号に訳出するやうに、フイシエンデンは評論中で箱木氏の曲面印刷法に就いて言及してゐる。一体この年鑑は欧州中心で、日本の事等は全然黙殺してゐる。毎年決まって写真植字機の進歩に就いて述べてゐるが、日本の石井式写真植字機の完成には一言だって触れた事はない。(本社で発行した印刷需要年鑑に、その何頁から何頁迄は写真植字機に依るものだと付記して、フ氏に送った事があるから、知ってはゐると思ふ)しかし、箱木氏の曲面印刷法に就いては、とうとう一言費さざるを得なかったのは愉快である。 ◇ ◇  印刷会社対印刷会社仕事争奪のゴタゴタは何時になっても絶へず、東京印刷工組はその裁判に急がしい。
* 欧州戦争の御蔭:Editor’s Reviewには次のように書かれている。
The loss, the waste, the anxiety of war! This year we must refer to the influence and the new conditions it has brought into our lives. Apart from preparations at sea, on land, and in the air, never before have our cities and towns been the centres of measures against attack, arriving with little warning at any time of the day or night; this interference with normal activities of every kind must throw even greater burdens on the community, creating financial difficulties and producing complications in management, organization, and production, which vitally affect our own industry in all its branches.
In addition to the stupendous task of rebuilding the basic structure, can we at this stage imagine any lasting compensation in aesthetics and technique? We must try to think and act constructively, however hard the task, and this volume being published in a time of acute difficulty, may help in some measure to reach that objective.・・・・
・・・
 In this war, the Government, instead of giving a lead to the right use of design in propaganda, has been reactionary, and for the time being we are oppressed by a mental as well as a physical black-out.(以下省略)

THE JAPAN TIMES & MAIL - JAPAN IN 1937 [箱木一郎 曲面印刷 ichiro hakogi]

JAPAN IN 1937 – THE JAPAN TIMES & MAIL
『一九三七年の日本』 昭和十二年六月五日発行 定価金七円
編集兼発行者 東京市麹町区内幸町一丁目六番地 株式会社 ジャパン・タイムス社
発行所 株式会社 ジャパン・タイムス社

TO PARIS EXPOSITION
The “Kurba Gravo” Japan-Made Invention Used For Decalcomania Printing

Of the various exhibits representing the old and new cultural aspects of Japan which will be displayed in the “Japan Hall” of the International Exposition opening in Paris on May 1, the section dealing with the newest and most practical Japanese inventions, to be shown in the Scientific Room of the Hall, is bound to arouse the greatest interest.
44 Inventions
Forty-four of Japan’s leading inventions, carefully selected by Dr. Jiro Tsuji, a member of the Institute of Physical and Chemical Research of Japan, with the aid of prominent specialists, is being placed upon exhibition for the world to inspect and admire. One of them is the “Printing Press for Curved Surfaces,” not only used in the ceramic and glass making industries, but also applicable to all articles which have 3 dimension for printing designs on finished products, and invention of Mr. Ichiro Hakogi, holder of several international patents, and a graduate of the Kansei Gakuin.
The Hakogi’s Kurba Gravo is an epoch-making invention, and it is the only curved-surface printing machine now in use.
THE JAPAN TIMES & MAIL 1937.JPGWork Rewarded
For many years, despite the remarkable progress made in the direct printing field, it was believed impossible to create a machine for printing on a curved surface, such as for work on bottles and ceramic ware.
As early as 1750, John Sadler, an English printer, invented decalcomania process on July
27, 1756, with the aid of his helper, Gay Green.
With his invention he was able to print patterns on 1,200 articles every six hours, doing the work of at least 100 men.
But revolutionary as his invention was it cannot be said to be direct printing on a curved surface for it had to undergo the process of transcription. Since then many attempts by both American and European journeymen have been made to find a suitable method but none have succeeded.
It was not until January 18, 1932 that Mr. Hakogi, after years of experimentation, came upon his new discovery. He worked on the air suction process. He had found that other experimenters failed to make perfect designs because between the diaphrane and the product to be printed a thin layer of air existed making it impossible to have perfect contact. By the use of sucking apparatus, a vacuum would be created, assuring a perfect design.
Hakogi, Inventor
With the use of the Hakogi Kurba Gravo press he can print ceramic work and glassware in six colors employing all kinds of patterns. The construction of the press is so that any article, no matter what shape, can be mechanically printed and designed.
However, in view of the high cost of manufacturing the new machine, the Government desirous of producing a practicable printing press which could be marketed at a reasonably low price gave to Mr. Hakogi a \9,000 grant as encouragement for further research. With the aid of Mr. Yoshitaka Seki, an engineer using the same principle, the pair a year later completed a printing press which could print on bottles.
Wins Prize
In 1934 the inventor was honored with an Imperial Prize for the invention. The new machine operates so smoothly that it prevents ceramic and glass from cracking and prints a clear design on the article. Mr. Hakogi is expected to have left for Paris late March where he will introduce the new machine to the world-at-large.
The Japan Kurba Gravo Laboratories are located at Akatsuka Nagoya, Japan. Correspondence can be addressed to P.O. Box 55, in care of the company.
(The Japan Times & MaillのJAPAN in 1937 p142より全文)

陶磁器界へ貢献 新聞記事文庫 陶磁器製造業(2-058) 東京日日新聞1935年2月5日(昭和10) [箱木一郎 曲面印刷 ichiro hakogi]

 家系図と言う名で、新しいブログを書き始めることにした。本来はホームページに公開する予定だったのだが、パソコンが古くなり、ホームページを作成した無料ソフトも使用期限が切れてしまい、今更ホームページを作るのも面倒になった、と言うのが実情である。祖父達のことはそれほど書くつもりもなかったのであるが、自分の年齢が高ずるにつれて、気力のあるうちに身内にだけでも、自分達の先祖について知っていること、分かっていることを纏めて記録に残しておこうと考えた次第。 そして、今日2009年2月19日の木曜日に、父が封書を持ってきてくれた。それは祖父箱木一郎の発明に関する新聞記事をホームページから印刷したもの、中国語の記事、その和訳の三点であった。早速、ここに公開することにする。

陶磁器界へ貢献
文様も自在に描く印刷機を完成全然、畑違いの人の手に・・・また発明日本の誇り

陶磁器界へ貢献
こんど、世界最初の「陶磁器曲面印刷機」という珍しい機会が発明せられ、その発明者に対し商工省では有用工業奨励金九千円を下付することに決定した。この陶磁器曲面印刷機というのは、皿、茶碗、コーヒー・セット等の文様、図案等を特殊の印刷機によって機械的に六色までのオフセットずりをするもので、現在コーヒー・カップ、洋皿等の文様は全部子供の玩具にある「うつし絵」式に、一旦紙に印刷してあるものを一枚一枚女工さんの手で素焼きの陶磁器に転写し、文様だけを貼り付け紙を剥ぎ取って釜に入れていたため、如何にしても継目を生じ、また絵が折れ返ったりして生産能率上の障害になっていた。ところが「曲面印刷機」は十二馬力のモーターで自働的に二、三人の職工で一時間に一千枚の曲面印刷をなす能力を有し、その原理は原画を一旦薄いゴム版に刷り取り、これを茶碗や皿の曲面にあてがい、その中間の空気をポンプで吸い取って真空貼り付けを用いあざやかに原画を曲面に転写する精巧なものである。これを発明した箱木一郎君(三五)は十年前関西学院の社会学科を卒業、全く方面違いの印刷に興味をもち、約五年前から東京高等工芸教授伊東亮次氏のもとに出入りするうち、陶磁器の文様に印刷機なく、旧態のままの原始的技工方法をとっているのに目をつけ、名古屋市東区芳野町の陶磁器輸出組合の一室に研究所を設け、名古屋高工の松良教授の協力を得て漸く完成したものである。昨年は発明協会から恩賜賞一千円の下付の光栄に浴し、今回また商工省かから奨励金の交付をみたもので、将来はこの機械をなお一層小型な手軽なものに改装すると同時に瓶、ガラス壜、ガラス製コップ等にまでも華麗な美術印刷をすると意気込んでいるが、何しろ陶磁器はわが海外輸出品中、名古屋を中心として生産されているものだけでも、年額三千五百六十三万四千円(昭和八年度)の巨額に達し、輸出品中の主要なるものであるから、簡便な曲面印刷機の発明は斯界発展へなお一層の拍車を加えるであろうと期待せられる。
専門家には却って感付けぬ 特許局化学課長 堀川氏談
箱木君の発明は世界に誇るに足るものでしょう。同君が専門家でなかったために思いつきが突飛で、却って専門家には感付けなかったことです。商工省では同君に一層の努力をお願いしてこれを簡易化し機械そのものを工業化していただくための奨励金の下付をみたわけです。(データ作成:2004.2 神戸大学附属図書館)

神戸大学電子図書館のデータを見つけたので、urlを紹介しておく。2010年7月18日日曜日
記事の題名は「関学出身の青年科学者誇らかに完成」である。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00078237&TYPE=HTML_FILE&POS=1

*****************

次回は、「傅抱石による日本工芸美術の視察」(原文中国語)を父の知り合いが訳して下さったものを紹介する予定である。
- | 次の10件

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。