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巴里の裏街 新大衆昭和14年2月号より [記録]

 ここに紹介するのは、箱木一郎がスクラップにして保管していた雑誌の記事である。「新大衆」という雑誌で、海外の街が紹介されているようであるが、祖父が出てくるのは巴里の話である。この記事で初めて知った。

巴里(パリー)の裏街(うらまち)           武藤 叟
 最初に巴里に行った時の盛り場はモンマルトルであった。二度目巴里に行った時の盛り場はモンパルナスであった。三度目巴里に行った時の盛り場はシャンゼリゼーであった。その他、学生街のパンテオン附近や、山手のワグラム一帯も盛り場の名にそむかぬ。マドレーヌからオペラ、サンドニー、サンマルタンの所謂グランブーヴァールの殷盛は云ふまでも無い。
 明治初年青木恒三郎編輯大阪の嵩座堂で発行せられた世界旅行万国名所図絵第三巻にはカルチエラタンを次のように紹介してある。
『西巴(にしパ)黎(リス)には大小の、学校多く建立し書生多く徘徊す、暇(か)時(じ)には酒楼(おちやや)に快(かい)を買ひ、麦酒(むぎざけ)機嫌で行くもあり、総体昻(こう)気(き)盛んにて、肩をいからし歩を高く、書生の状態いづくでも、かわりしことは無きぞかし。且此(この)辺(へん)は巴黎中、狭き斜めの巷にて、一二の街私窩(じごく)あり、いといやらしき妖婦ども午後より四方に徘徊し、強いて客を拘引す、欧洲中にもフランスは、随分淫らの風ありて、識者の愧(はづ)る処也』
 識者の愧る処也―では面白い話がある。或る帝大の倫理の先生を案内して歩いて居ると、先方から、異国の美型を連れて歩いて来る日本人があった。倫理先生ひどく不愉快になつて、吐き棄てるように云って曰く『国辱ですなア・・・』と、数日して用事があつて又同じところを歩いて行くとほとんど同じ場所で倫理先生の所謂国辱風景に出遭つた。が、さらに接近して見ると前日とは男が違って居た。即ち男は倫理先生その人であった。
 さて、盛り場の話であるが、前記した盛り場のうちで一番陰影に富んで居るのは、やつぱり昔ながらのモンマルトルであろう。建築物にも、人の生活にも、時代のサビが濃やかである。キッたハッたの活劇から、涙をそそる人情味から、叫喚と爆笑と艶姿と嬌声から・・・・断然、巴里の王冠である。このモンマルトルも欧洲大戦後、カルチエラタンに近いモンパルナスにその華やかさを奪われた。といふのはモンパルナスに陸続として、アメリカ風の大がゝりなカフエが立ちならんだからである。然し、最近に於いて、さらに大がかりなのがシャンゼリゼーに出現するようになつて見ると、モンパルナスはいたく中途半端になつてしまつた。そして、いつそ昔風の巴里を慕ふものゝために、モンマルトルが又喜ばれるようになつて来た―と見るのが至当であろう。
 モンマルトルと云ふのは、サックレケウール寺の南麓一帯のことであるがクリーシーの広場から始まつて、ピカール広場を経てブールヴァール・ド・ロウシュシュアールの終わるまでの大通りがその根幹をなしてゐる。そのうちに地獄、極楽や、黒猫屋や、日本までも有名なムーラン・ウルージュ等があるのである。
 これは今度行つた時の話であるが、この裏街で日英の大活劇を演じて仕舞ふことになつた。話はこうである。今度巴里の万国博で最高賞を獲得して天下に名を成した(尤も彼はその以前に今上陛下の恩賜賞を戴いているのだが)箱木(はこぎ)一郎(いちろう)氏も一人は現に新宿御苑に勤めて居る福羽發(ふくははつ)三(ざう)氏(父君は福羽苺を育成して、世界的に令名ある人)何れも代表的な大竹を割ったような快男子である。箱木君の如きは、フランスの大統領に腕まくりのまゝ、自分の発明にかゝる曲面印刷機の説明をやつて、その明晰なる頭脳と流麗なる英語と堂々たる態度に恍惚たらしめた男である。この両君の案内役が僕である。
 両君とも、フランス語は皆目わからないが、そんなことで縮ぢかんだり遠慮するような男ではない。ワグラムのロシア料理で、豚の串焼か何かで大いにメートルをあげたあと、バルタバランに車をつけたのであるが、両君の希望はそんな女々しいことでは足りなくなつてしまつて居たのでプラスヒギアールで車をすてた。モンマルトルの頂きから、夜の巴里を脚下にしながら、さらに大いに日本の新しい世界政策を論じようと云ふのである。曲がりくねつてリューシャップにさしかゝつた時であつた。リューデトロアフレールからすさまじい勢いで飛び出して来た男が三人、そのうちの一人が我々より数歩先行一人の男を一撃で突き倒してしまつた。『ウ、なにウォする!』一喝が福羽氏の口を突いた。トタンに彼はその無頼漢をフン捉まへてしまつてゐた。驚いたのは僕だ。義侠は日本でのこと、まして異人さん同士の喧嘩に捲き込まれるのは愚の骨頂習慣を知らぬ福羽氏を放させようするが、少々お酒も手伝つた日本男子の腕は鉄のように堅い。その時早くもこの時遅く、彼等の一味の二人は、この降ってわいた一人のスペイン人(彼等はそう思ったのであつた。眉目秀麗なる福羽氏は、むしろ英国型の好男子である)に弾丸の如く飛びかゝつて行つた
も一度、この時遅くかの時早く、福羽氏は自分のツカんだ男でもつて飛びかゝつて来る男を受けとめ、箱木氏はも一人の男の脚を自分の脚の先でチョイとからめた。結果は、福羽しにツカまれた男は、自分の同志から、目の玉が飛び出る程の一撃を喰らひ、も一人の足をからめられた男はもろくも我と我が身を石畳の上にたたきつけた。自分の同志の横面をヒツぱたいた男が立ちなほろうとする前に、福羽氏に投げられた男の脚が空を切つて下(お)ちた。それは数秒の出来事であつた。僕が唖然として居る数秒の間に、彼等三人の異人さんは、完全にノビてしまつた。十数分の後、後ろから人が追つかけて来る足音がしたので振りかへつて見ると一人の巡査であつた。簡単に事情を聞いた後、彼等は昨夜(ゆふべ)もこの附近で暴れた英国の船員だと云つて淡々として帰つて行つた。
『男×をやる家』の前を通つて『兎の家』でビールを飲んで、タクシーを拾ってパッシーに帰つて行つた。モンマルトルはこれからと云ふ午前一時を、パッシイはもう流石にシンと寝静まつて居た。

掲出誌:『新大衆』昭和14年(1939年)2月号 pp110-111
武藤叟は、巴里会の世話役だった人物。参考資料「非文字資料研究The Study of Nonwritten Cultural Materials」ISSN-1348-8139 News Letter 2010.1 No.23 報告2 鈴木貴宇(たかね)「1930年代の銀座における巴里への憧憬―雑誌『あみ・ど・ぱり』と巴里会」以下引用文:
巴里会の「帝都復興」に東京市民が湧いた1930年代、銀座を拠点に画家、作家、ジャーナリスト、実業家といった人士の集まりである。彼らはパリに滞在経験のある人々がパリのような都市を銀座に実現させようという問題意識を共有していた。巴里会は世話役の武藤叟や発起人の黒田鵬心らが中心となり、1930年(昭和5年)に発足した、毎月14日(フランス革命記念日)を例日に会食などをする社交クラブが原点となった。同会は、4年後に機関紙「あみ・ど・ぱり」AMIS DE Parisを刊行している。

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kara_oguri

はじめまして

kara_oguriと申します。
「新大衆」の検索で貴サイトのことを知りました。
私は、「新大衆」の昭和14年1月号を長年探しているのですが未だ見つかりません。国会図書館にもありませんでした。

 貴サイトにて「新大衆」2月号について記事を書いておられるのを発見し、もしやと、思い書き込みました。

・記事に書かれておられる「新大衆」昭和14年2月号は巻号で云えば、第二巻第二号で正しいのでしょうか?
・昭和14年1月号に関する情報をお持ちであれば教えていただけないでしょうか。

以上ご教示お願い申し上げます。
by kara_oguri (2014-05-28 14:38) 

アヨアン・イゴカー

kara_oguri様

ご質問があることに気付かず、失礼致しました。
さて、「新大衆」昭和14年2月号についてですが、祖父が自分について書かれた記事を切り抜いてスクラップ帳に貼り付けたものにすぎません。そのため、残念ながら何もお答えできるようなものは持ち合わせておりません。
雑誌の続きの記事の題は『夜のシンガポール』青野敏夫となっており、
以下のように書かれています。

軍備でいそがしい

赤道直下の一漁村が、僅かに三十年の間に三十万の人口へ躍進したシンガポール(以下次のページですが、糊で貼り付けられていて読めません。)

このいくつかの記事の括りは、「世界の光なき街々をゆく」となっています。

お役には立たなかったと思いますが、以上ご回答申上げます。

by アヨアン・イゴカー (2014-06-07 19:08) 

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