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箱木一郎の思い出 その1 [箱木一郎の思い出]

祖父一郎の思い出 2014-07-21 月曜日 海の日

 祖父の思い出については、纏めてみたらその人となりが少し分かって面白いかもしれないと思いついた。そこで、早速、母にもあれこれ聞いてみたが、記憶が大分曖昧になってきている。年齢が年齢なのでそれは致し方ないことである。正確を期そうとすると、無理があるので多少事実とは異なっていても、参考になればよいと割り切って書くことにする。
 母が箱木一郎に初めて会ったのは昭和17年(1942年)のことだった。それは、母が信州の弥生女学校を卒業後、千代田区富士見町の商業専門学校に入って2年目のことだ。母は商業が嫌いだった、というよりも訳が分からなかったので、父親が経済的にもう少し余裕があれば日本女子大学で日本の古典文学を読みたかったようだ。しかし、兄二人も大学へ行き、姉は花嫁学校へ行っていて、戦時中のこともあり娘を大学へやるだけの金がなかった。結果として母は商業の嘉悦孝(たか)女史の創設した専門学校へ進学するが、そこで父の姉である箱木博子と同級生となり友達になった。伯母博子は、父から聞いているかぎりでは、非常に気の強い女性だった。名古屋の商業学校を主席で卒業した頭のよい女性で、父は彼女と比較されて嬉しくはなかったようだ。女子医専(東京女子医学専門学校)を受験したが、口頭試問を受けていた際、どうして商業学校を出た者が医学校を受験するのかと問われ腹がたった彼女は吉岡弥生女史と口論し、不合格になったと言う女丈夫であったらしい。そしてこの吉岡女史と嘉悦女史とは友人だった。その伯母博子が父親一郎のことを学者かなんかのように自慢げに話していたので、インテリ好きの母としてはかすかな憧れを持ったのかもしれない。
 母は専門学校の寮で生活する予定だったが満室となっていたため、代々木にあった嘉悦女史の自宅に間借りすることになった。女史の家には都合二年半いることになったが、女史の思い出としては洗濯物をしていた時に、彼女から色物は白い生地に染まってしまうので白いものとは一緒に洗わないようにと注意して頂いたそうである。女史は、若かりし頃、熊本の緑川製糸工場で女工として働いた経験があった。
この代々木の家から、世田谷区喜多見にあった一郎の家には数回行った記憶があるそうだ。学者風な人だろうからと、立派な家を想像して訪問したようだが、あまりぱっとしない家だった。発明家なので、そのようなことに無頓着なのである。玄関を入ると入り口にはオルガンが置いてある。母は父親の影響もあって音楽が好きだったから、そのような楽器を見るとついペダルを踏んで鍵盤をいくつか押してみた。壊れたオルガンから音がでた。すると、奥の庭から「うるさい!」誰かが怒鳴った。それが箱木一郎だった。母は慌ててオルガンから離れた。「ごめん下さい。」と言って中へ入ると、当時四十六歳の一郎が両手を広げ、片足を上げて母を歓迎してくれたのを印象的に覚えているそうだ。口にはパイプを咥え、着物を着流していた。今考えれば若いのに、大分年輩に見えた。
その他の思い出と言えば、一郎はトイレへ行く時は、大きなレンズを手に持って、本を持って入ったそうである。トイレは個室で落ち着くので、そこであれこれ考えるのが好きだったのかもしれない。世田谷の家のトイレについて言えば、私が覚えているのは、トイレが自動ドアになっていたことである。蝶番で止められている扉には紐と滑車がついていて、その端には錘が取り付けてある。この錘が自重で下に下がることで、開けた扉を自然に閉めるのである。私は世田谷の祖父の家でこれを見た時「流石、発明家の祖父はこんな工夫もするもんだ」と思ったものである。何か自分でもこんな仕掛けをしてみたいと思ったが、出来ずにそのままになっている。
これは、戦後北海道に渡ってから十数年後の話だが、母を東京に呼んでくれたことがあった。その時祖父は創業した印刷機械の会社の経営も大分順調になり金銭的にも楽になっていたようで、母に旅費を送ってくれた。北海道から上京する際、汽車の二等に乗れるようにしてくれたのだった。が、みすぼらしい身なりをして次姉と私と弟を連れた母に、車掌は二等の席を案内してくれず、無理をせずにと三等を買わせた。尤も青函連絡船については二等船室で船底の部屋ではなかったので、揺れずに済んだ。そして、世田谷についてからは祖母が付き添って着物を買ってくれた。着古しばかり着ていた母は少し地味な着物だったが嬉しかったそうである。そればかりか、歯が悪く、器量が随分悪くなっていた母に歯の治療をさせてくれた。母の前歯は以前に治療した時に、よい消毒薬がなく、ヨードチンキを使用したので、歯の一部が紫色に染まっていたのだった。それを治療し、髪も整えて北海道に戻った時、すっかり可愛くなっていたので、町の役場の人や近所の人々は母が同じ人だと分からなかった、と自慢そうに母は話してくれた。「御父さんには可愛がってもらったよ。」と母。
ちなみに、私の母は若い頃は顔がまるまるしているが、眼がねを外してとった写真などはなかなか可愛いと思う。東京の三菱商事でずっと勤務していたら、相当に垢抜けていたのに、と残念に思うこともある。が、人生に選択肢は一つしかない。
母の一郎についての思い出は、今日はあまり聞き出すことができなかった。父親と一緒の時に聞いたほうが、思い出の連鎖反応が期待できるので、改めて聞いて見たい。そして、姉や兄の思い出も聞いてより多くを記録しておきたい。

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