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箱木一郎の思い出 その3 [箱木一郎の思い出]

 祖父一郎の思い出 その3
2014年9月7日 日曜日
箱木一郎の長男、東洋男の一郎の思い出。昨日の晩卒寿祝いの後に、父東洋男に祖父の思い出を思いつくまま語って貰う。
 子供の通学している学校には来ないが、負けた喧嘩はやり直せと言う教育だった。自分自身も腕力には自信があったためのようである。(実際、殆ど運動をしない印象のある祖父が、エキスパンダーを持っていて、坐ったままでバネを3本入れて私達孫の前で、両手で眼一杯引いて見せてくれた時にはびっくりしたものだ。それを見せてくれた頃、七十歳は過ぎていたと思う。)一郎は偏平足だったため、徴兵検査では丙種合格(つまり不合格)だったが、子供の頃には琵琶湖を泳いで横断した、と自慢していたそうである。父はどのくらいの距離を泳いだのか大津に行った時に見てみると、琵琶湖横断と言う大げさな響きほどの距離ではなかったのではないかという印象を持った。それでも数キロは泳いだのではないかと思われる。
 一郎の祖父兼吉(万延元年1860年生まれ)は鉄道技師で、学校こそ出ていないが技術力があったためにイギリス人鉄道技師について鉄道の敷設を行った。その兼吉が群馬県安中市で仕事に従事することになったために一家は松井田町に引っ越した。碓氷峠は傾斜がきついためにアプト式の鉄路を敷くことになった。その技術の特殊性からか、当時兼吉は、松井田町横川で最も高い給料を貰っていたそうである。
 群馬県立高崎中学校を卒業後、関西学院大学に進み、文学部社会学科を卒業したと年表(『箱木一郎「曲面印刷」を語る』日本曲面印刷機株式会社発行 昭和58年1月23日)には書いてあるが、父の記憶では英語とインド哲学の二つを専攻した。
 1923年大学卒業後、東京に転居する。世界文庫刊行会へ入社。そして国際印刷学会に出席した際に三次形面への印刷が当時できないと言う発表を聞き、俄然三次形面への印刷に挑戦してみようと発奮し、1924年頃、東京高等工芸学校(現千葉大学)にて、印刷について研究を始める。
 東京国際倶楽部にも参加しており、大正15年(1926年)頃、大使館に爆弾を仕掛け死亡した越南の志士のために、大久保にあった自宅で河口慧海師を招いて「越南国憂国志士追悼会」を執り行った。参加者はマヘーンドラ・プラタプ(1886-1979)、ラス・ビハリ・ボース(1886-1945.1)、新宿中村屋の創業者相馬愛蔵等。尚、<神保町系オタオタ日記>2011-03-31の記事によれば、主催は陳福安。
 祖父一郎は、若かりし頃は理想に燃えていたようで、特高が家の周りをうろついているような状態で普通の会社勤めは難しいと感じており、それ故に独立できるように何かをしようと考え発明家になったのではないか(東洋男談)。
 
註:東京国際倶楽部は『賢治の事務所』http://www.bekkoame.ne.jp/~kakurai/index.htmlの『宮沢賢治の東京における足跡』を歩く
http://www.bekkoame.ne.jp/~kakurai/kenji/sokuseki/index.htmlが参考になる。
<以下引用>
1926(大正15)年12月12日(日) 午後、神田のYMCAタイピスト学校で知りあったシーナという印度人の紹介で東京国際倶楽部の集会に出席する。 フィンランド公使で言語学者のラムステットの日本語講演があり、その後公使に農村問題、とくにことばの問題について意見をきき、エスペラントで著述するのが一番だといわれる。 この人に自分の本を贈るためにもう一度公使館へ訪ねたい、ついては土蔵から童話と詩の本各四冊ずつを送ってほしい旨を父へ依頼する(書簡221)。
 なお上京以来の状況は、上野の帝国図書館で午後二時まで勉強、そのあと神田美土代町のYMCAタイピスト学校、ついで数寄屋橋そばの新交響楽団練習所で オルガンの練習、つぎに丸ビル八階の旭光社でエスペラントを教わり、夜は下宿で復習、予習をする、というのがきめたコースであるが、もちろん予定外の行動 もあった。 観劇やセロの特訓がそうである。
■関連作品など:
《書簡221 1926年12月12日 宮沢政次郎あて 封書》 今日は午后からタイピスト学校で友達になったシーナといふ印度人の紹介で東京国際倶楽部の集会に出てみました。 あらゆる人種やその混血児が集って話したり音楽をやったり汎太平洋会のフォード氏が幻燈で講演したり実にわだかまりのない愉快な会でした (略) 実はにこの十日はそちらで一ヶ年の努力に相当した効果を与へました。 エスペラントとタイプライターとオルガンと図書館と言語の記録と築地小劇場も二度見ましたし歌舞伎座の立見もしました。 (略)

1926年に賢治もこの集会に出席しているので、宮沢賢治と同年生まれの祖父一郎が、賢治と同じ場所にいた可能性があると考えると、少し楽しくなる。


祖父一郎の思い出 その2 [箱木一郎の思い出]

祖父一郎の思い出 2014-07-26 土曜日

 今日は、姉にできるだけ祖父の思い出を語ってもらったので、それを書いておきたい。
 祖父の奇人ぶりについて。シュバイツァー博士よろしく、探検用ヘルメットを被り半ズボンを履いて、パイプを咥え外を歩き回っていたそうである。あくまでも聞いた話なので姉も見たことはない。
 姉もそうだったが、私達孫にはしばしば按摩をするように言いつけた。姉によると祖父は孫に按摩してもらうのが好きだった。握力もまだ付いておらず、程ほどの握力で押されれば、子供の指先の肉は柔らかいので、確かに気持ちよかったであろうと思う。運動嫌いで、外出はまれにしかせず、たまに散歩に行く時は喜多見の家の近くから狛江くらいまで、祖父のシゲさんと一緒に出かけた。
 姉の言葉で思い出したが、祖父は白髪を抜いたり、顎鬚を毛抜きで抜く癖があった。姉によると「これは、ただ抜いているんではないんだよ。あれこれ考え事をしているんだよ。」と理由付けをしていたそうである。
 祖父一郎が使っていたふざけた言葉。ボストン。これはトイレのことである。祖父はトイレに行く時に「これからボストンへ留学に行ってくる。」と言った。姉に何故ボストンと言うか分かるかと言ってしてくれた説明については省略するが、推測の範囲で充分に理解できると思う。ニューヨークはボストンの近くにあるが、これは言うまでもなく浴室のことである。喜多見の家のトイレと浴室は隣り合わせになっていた。この類の言葉は、父からも聞いたことがある。オストアンデルは饅頭、ヒネルトジャーは水道栓。
 祖父は家が好きで殆ど家の中にいた。たまに虎ノ門の特許庁に徹哉叔父と出かける時が、祖母が外出を楽しめる機会だった。そんな時には、祖母は姉を一緒に連れて行ってくれた。行ったのは新宿の伊勢丹、東京の大丸、有楽町のそごうなど。当然のことながら夫の帰宅前に帰るように買い物を済ますのだが、祖父一郎の方が早く特許庁から戻っている時もあった。そんな時は祖父は喜多見の駅まで祖母を迎えにきていたそうである。確かに、祖母なしでは生きてゆけないような人だった印象がある。
 祖父の服装について。夏は自宅ではパンツ一枚。或いは浴衣。冬は着物や丹前。一方外出する時は、日本橋丸善など仕立てた背広に、やはり革靴。この革靴は姉やシゲが磨いた。そして、この背広は全て祖母シゲがワイシャツ、ズボン、ネクタイ、上着と言うように順番に一枚ずつ着せ、祖父は着せ替え人形のように着せて貰うばかりだった。
 好きな食べ物は、薄皮饅頭。祖母は新宿に出た時は祖父の為に追分団子を土産に買って帰った。味付けは甘辛が好きで、脂っこいものが特に好きだった。平素は質素だったが、たまに松坂牛の霜降りですき焼きを食べたり、天麩羅を食べたりした。一度、大阪の松下電器の方がお土産に松茸を持って来てくれたことがあったが、その時にはすき焼きにその松茸をいれて食べたそうだが、松茸の香りが素晴らしかった、と姉は今でもその味を覚えているようだ。
 好きなテレビは、プロレスで、力道山がアメリカ人の敵役を空手チョップで倒すのを見るのが特に好きだった。叔父徹哉の運転するヒルマンに乗る時にもそうなるのだったが、プロレスを見ている時、祖父は興奮して人が変わったようになり、「それいけ!」「空手チョップだ!」などと画面に怒鳴っていたらしい。社会党の浅沼稲次郎が山口二(おと)矢(や)に暗殺された時、そのニュースを見ていたそうで、姉もその状況を覚えている。他には日曜日に放送されていた小浜利徳と細川隆元の「時事放談」を見ていた。
 朝には濃い目のお茶を飲み、新聞を熟読する。そして気に入った記事は切抜きをし、赤鉛筆で丸をしてスクラップ帳に貼った。確かに、現在ある祖父の若かりし頃の新聞記事や雑誌記事のスクラップは非常に貴重な情報が満載で、このような几帳面なところがなければ祖父がどのようなことをして来たのかは、今ほどよく分からなかったかもしれない。
 筆記用具などの文房具にも拘りがあったようで、いろいろあったようだが詳細は不明である。極太のパイロット製の万年筆を愛用していた。
 祖父は舶来物好き、新しい物好きであった。オープンリールのテープレコーダーがあったし、タイプライターもあった。
 無宗教。戦時中にはインドの土侯や独立運動の志士ビハリ・ボースとの面識もあったため、特高にも目をつけられていたらしい。このインドの土侯については、喜多見の家の庭で撮った記念写真がある。赤ん坊だったサチヤ叔母も一緒に写っていたと思うが、その写真をもう一度見て確かめる必要がある。サチヤと言う名前は、ガンジーの唱えたサティヤ・グラハのサティヤ(真理)から取っているが、この土侯がつけてくれたのだと聞いたことがある。叔母の名前は、なんと立派な由来のある名前だろう。
 以上が祖父についての姉からの取り敢えずの追加情報である。

箱木一郎の思い出 その1 [箱木一郎の思い出]

祖父一郎の思い出 2014-07-21 月曜日 海の日

 祖父の思い出については、纏めてみたらその人となりが少し分かって面白いかもしれないと思いついた。そこで、早速、母にもあれこれ聞いてみたが、記憶が大分曖昧になってきている。年齢が年齢なのでそれは致し方ないことである。正確を期そうとすると、無理があるので多少事実とは異なっていても、参考になればよいと割り切って書くことにする。
 母が箱木一郎に初めて会ったのは昭和17年(1942年)のことだった。それは、母が信州の弥生女学校を卒業後、千代田区富士見町の商業専門学校に入って2年目のことだ。母は商業が嫌いだった、というよりも訳が分からなかったので、父親が経済的にもう少し余裕があれば日本女子大学で日本の古典文学を読みたかったようだ。しかし、兄二人も大学へ行き、姉は花嫁学校へ行っていて、戦時中のこともあり娘を大学へやるだけの金がなかった。結果として母は商業の嘉悦孝(たか)女史の創設した専門学校へ進学するが、そこで父の姉である箱木博子と同級生となり友達になった。伯母博子は、父から聞いているかぎりでは、非常に気の強い女性だった。名古屋の商業学校を主席で卒業した頭のよい女性で、父は彼女と比較されて嬉しくはなかったようだ。女子医専(東京女子医学専門学校)を受験したが、口頭試問を受けていた際、どうして商業学校を出た者が医学校を受験するのかと問われ腹がたった彼女は吉岡弥生女史と口論し、不合格になったと言う女丈夫であったらしい。そしてこの吉岡女史と嘉悦女史とは友人だった。その伯母博子が父親一郎のことを学者かなんかのように自慢げに話していたので、インテリ好きの母としてはかすかな憧れを持ったのかもしれない。
 母は専門学校の寮で生活する予定だったが満室となっていたため、代々木にあった嘉悦女史の自宅に間借りすることになった。女史の家には都合二年半いることになったが、女史の思い出としては洗濯物をしていた時に、彼女から色物は白い生地に染まってしまうので白いものとは一緒に洗わないようにと注意して頂いたそうである。女史は、若かりし頃、熊本の緑川製糸工場で女工として働いた経験があった。
この代々木の家から、世田谷区喜多見にあった一郎の家には数回行った記憶があるそうだ。学者風な人だろうからと、立派な家を想像して訪問したようだが、あまりぱっとしない家だった。発明家なので、そのようなことに無頓着なのである。玄関を入ると入り口にはオルガンが置いてある。母は父親の影響もあって音楽が好きだったから、そのような楽器を見るとついペダルを踏んで鍵盤をいくつか押してみた。壊れたオルガンから音がでた。すると、奥の庭から「うるさい!」誰かが怒鳴った。それが箱木一郎だった。母は慌ててオルガンから離れた。「ごめん下さい。」と言って中へ入ると、当時四十六歳の一郎が両手を広げ、片足を上げて母を歓迎してくれたのを印象的に覚えているそうだ。口にはパイプを咥え、着物を着流していた。今考えれば若いのに、大分年輩に見えた。
その他の思い出と言えば、一郎はトイレへ行く時は、大きなレンズを手に持って、本を持って入ったそうである。トイレは個室で落ち着くので、そこであれこれ考えるのが好きだったのかもしれない。世田谷の家のトイレについて言えば、私が覚えているのは、トイレが自動ドアになっていたことである。蝶番で止められている扉には紐と滑車がついていて、その端には錘が取り付けてある。この錘が自重で下に下がることで、開けた扉を自然に閉めるのである。私は世田谷の祖父の家でこれを見た時「流石、発明家の祖父はこんな工夫もするもんだ」と思ったものである。何か自分でもこんな仕掛けをしてみたいと思ったが、出来ずにそのままになっている。
これは、戦後北海道に渡ってから十数年後の話だが、母を東京に呼んでくれたことがあった。その時祖父は創業した印刷機械の会社の経営も大分順調になり金銭的にも楽になっていたようで、母に旅費を送ってくれた。北海道から上京する際、汽車の二等に乗れるようにしてくれたのだった。が、みすぼらしい身なりをして次姉と私と弟を連れた母に、車掌は二等の席を案内してくれず、無理をせずにと三等を買わせた。尤も青函連絡船については二等船室で船底の部屋ではなかったので、揺れずに済んだ。そして、世田谷についてからは祖母が付き添って着物を買ってくれた。着古しばかり着ていた母は少し地味な着物だったが嬉しかったそうである。そればかりか、歯が悪く、器量が随分悪くなっていた母に歯の治療をさせてくれた。母の前歯は以前に治療した時に、よい消毒薬がなく、ヨードチンキを使用したので、歯の一部が紫色に染まっていたのだった。それを治療し、髪も整えて北海道に戻った時、すっかり可愛くなっていたので、町の役場の人や近所の人々は母が同じ人だと分からなかった、と自慢そうに母は話してくれた。「御父さんには可愛がってもらったよ。」と母。
ちなみに、私の母は若い頃は顔がまるまるしているが、眼がねを外してとった写真などはなかなか可愛いと思う。東京の三菱商事でずっと勤務していたら、相当に垢抜けていたのに、と残念に思うこともある。が、人生に選択肢は一つしかない。
母の一郎についての思い出は、今日はあまり聞き出すことができなかった。父親と一緒の時に聞いたほうが、思い出の連鎖反応が期待できるので、改めて聞いて見たい。そして、姉や兄の思い出も聞いてより多くを記録しておきたい。

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